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ミトコンドリアは細胞内生物?

地球上のほとんどの生命は、その活動エネルギーを得るために「酸素呼吸」を行っていますが、酸素呼吸に欠かせないのが「ミトコンドリア(mitochondrion)」という細胞器官です。
このミトコンドリアが細胞器官になったのには、世にも不思議な物語があります。

今から15~20億年前、酸素と糖を使ってエネルギーを作る細菌(Aとします)がいました。
あるとき、別の細菌(Bとします)が細菌Aを、自分の体に取り込んでしまいました。
細菌Aはエネルギーを作る能力が、細菌Bよりずっと高く、Aを取り込むことによって、Bは今までより、ずっと大きなエネルギーを得ることが出来るようになりました。
また取り込まれた細菌Aも、糖と安定した環境を得ることが出来ることになりました。
何とも手っ取り早いやり方ですね。「出来ちゃった婚」てやつかしら?

細菌Aは細菌Bの一器官、ミトコンドリアとなり、そして細菌Bは細胞核や小胞体、ゴルジ体などの「細胞小器官」も内蔵することとなりました。
このような細胞を「真核細胞」といいます。そして真核細胞は多細胞化し、「真核生物」として進化したのです。なお、細胞小器官を持たない細胞を「原核細胞」といいます。
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ミトコンドリアは真核細胞の一器官ですが、その働きはまるで独立した細胞のようです。
真核細胞は核にDNAを持っていますが、ミトコンドリアも独自に遺伝子を持っています。
その遺伝子は、細菌Aがミトコンドリアとなる過程で、大部分が細菌Bの核に移動したため、現在のミトコンドリアには、遺伝子がわずかしか残っていませんが、ともかく独自の遺伝子を持っていて、生物が受精する時、その遺伝子は、精子の一部として卵子の中に入ります。
ところが、理由は明確には解っていないのですが、精子のミトコンドリアは卵子の中で分解されてしまい、したがって卵子のミトコンドリアDNAのみが複写されるのです。
つまり、ミトコンドリアDNAは、必ず母親から子に受け継がれ、父親から受け継がれることはないのです。
このことから「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれる「現生人類の最も近い共通女系祖先」という大変興味深い仮説が立てられますが、今回は触れません...

で、「ヒト」の体は、60兆個の細胞で作られています。
その細胞の中には、多くの細胞小器官が内蔵されていますが、もっとも重要なものは、ミトコンドリアです。その数は、1細胞当たり100~3000個で、重さではヒトの体重の10%、体積では20%に達するといいます。
エネルギーを必要とする細胞ほど、ミトコンドリアの数が多く、ヒトでは心筋細胞や骨格筋細胞、神経細胞などでその数が多いのです。
この膨大な数量のミトコンドリアが、細胞の中で、融合したり、分裂をしたり、またミトコンドリア同士で、物質のやり取りをして、共同作業をしています。

ヒトの体内では「ATP(アデノシン3リン酸)」という分子を、エネルギー源として利用しています。ヒトは食べ物のエネルギーを直接使うことが出来ず、ミトコンドリアが、食べ物のエネルギーをもとに合成したATPを利用しているのです。
ATPは生体内では、リン酸1分子が離れたり結合したりすることで、エネルギーの放出・貯蔵、あるいは物質の代謝・合成の重要な役目を果たしていて、ヒトに限らず、すべての真核生物が、これを直接利用しています。

さらにミトコンドリアの重要な働きの一つに「アポトーシス」(枯葉が木から落ちるというような意味)と呼ばれる「プログラムされた細胞死」というものがあります。
細胞は放射線や化学物質など様々な攻撃にさらされています。DNAが攻撃によって修復不能な大きな傷がつくと、がん細胞化する可能性が高くなります。
このとき細胞内のミトコンドリアが「細胞を殺せ」という指示物質を放出し、細胞やDNAを分解するタンパク質が活性化し、細胞死に至らせます。
このような細胞死を「アポトーシス」と呼びます。
外からやってきた細菌が、こんな役割を果たしているなんてねえ...

しかし、細菌Bが細菌Aを取り込んだことは、良いことだけではなかったのです。
細菌Aは酸素呼吸を行う「好気性生物」で、細菌Bは酸素を嫌う「嫌気性生物」です。
この性質は、真核細胞とミトコンドリアの関係になっても変わっていません。
例えばヒトは、肺から吸い込んだ酸素を血液によって運んで、体内の細胞に取り込み、ミトコンドリアは、これを使って糖や脂肪を分解していく過程でエネルギーを得ますが、これは「有害な酸素」を摂取し、ミトコンドリアまで届けなければならないことを意味します。

またミトコンドリアが、酸素を使ってエネルギーを取り出すとき、どうしても酸素が外に漏れてしまい、それは「活性酸素」(通常の酸素分子より反応性が高い酸素化合物ないしは酸素原子)となって、細胞に有害な作用をします。
これが老化やガンの原因になると考えられています。また糖尿病や、高血圧、心臓病といった生活習慣病も、活性酸素の増加が引き金になっているといわれています。

さらにはミトコンドリアの機能が低下して、エネルギー生産が出来なくなると「ミトコンドリア病」と総称される様々な病気を引き起こすことがいわれています。
記憶力や知能の低下、筋力の低下、また肝機能障害や、貧血、心筋症、視力低下など体のあらゆる部分で症状が現れます。
細菌AとBの合体によって、大きなエネルギーや機能を獲得した代償ということでしょうか。


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クモの糸は強くて伸び~る!

芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」は、地獄に落ちて苦しむ悪人が、仏様の垂らしたクモの糸につかまって、地獄から脱けだそうとした話ですが、クモの姿形の奇怪さや、クモの糸の強靭さで、いろいろな物語や映画などで題材にされています。最近では「スパイダーマン」なんて映画で、強くそして長~く伸びる糸が、主役?になっていますね。

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一口にクモの糸といっても、実はいくつかの種類があって、クモは用途に応じて異なる性質の糸を使い分けているのです。
巣の中央から放射状に伸びる糸は「1.縦糸」といいます。その縦糸は巣全体を囲う「2.枠糸」に留められています。枠糸はまた「3.係留糸」によって木の枝などに留められます。
これらの糸は、いわば巣の構造をなしています。粘着性はありません。
縦糸を繋ぐように、ぐるぐると円形に張られるのが「4.横糸」です。
横糸は「粘着球」という粘着性の球状物質が並び、これによって獲物を絡めとります。
横糸はまた良く伸びるのが特徴です。
巣の中央には、クモがとまる「こしき」と呼ばれる部分があって「5.こしき糸」という粘着性のない糸でできています。
そしてクモ自身がぶら下がる糸が「6.牽引糸」です。牽引糸は最も強い糸です。
牽引糸の端は粘着性の強い糸でできた「付着盤」で、木の枝やこしきに固定されています。
ほかにもクモの卵を囲う「卵のう」に使う糸、巣にかかった獲物をぐるぐる巻きにする「捕獲帯」に使う糸など、クモはその用途に応じて、様々な糸を使い分けているのです。

クモの糸がどれくらい強いかというと、まず「引張り強度」ですが、「高張力鋼」という、自動車の車体などに使われる特別に強い鉄合金の数倍にも達します。
また「引っ張り強さ ÷ 密度」であらわす「比強度」は、炭素繊維を上回ります。
比強度が大きいほど、軽いわりに強い材料です。
「伸度」は、糸の伸びやすさを示します。糸が切れるまで伸ばし、元の長さの何%まで伸ばすことが出来るかを計ります。くも糸の中では比較的伸びにくい牽引糸の伸度は30%あり、良く伸びる繊維であるナイロンを超えます。

ではクモ糸はどのように出来ているのでしょうか?
クモの糸は「フィブロン」というタンパク質で出来ています。フィブロン分子は、一つの分子の中に、異なる性質を持つ二つの部分があります。
一つはアミノ酸配列が非常に規則的に並んだ部分で、もう一つはその規則性に乱れがある部分です。この二つの部分が繋がったものを一つの単位として、それがまた何十も繋がったものが、一個のフィブロン分子になります。
そのフィブロン分子が多数撚り集まって、一本のクモの糸になります。
そしてアミノ酸配列の規則性が高い部分は、ぴったりとくっつきあって結晶を作っていて、フィブロン分子が固く結びつくため、強い糸になり、また規則性に乱れがある部分は、絡まりあって伸び縮みするため、糸は良く伸びることができます。

またクモは糸をつむぐときに、自身で糸の加工をします。
クモはその腹部に出糸突起という器官を持ち、その先端近くに多数の小さな突起、出糸管があり、その先端から糸が出ます。出糸管それぞれから出る糸に違いがあり、クモは用途に応じて使い分けています。また出糸管から出た糸を、手や体を使って伸ばし、フィブロン分子の向きをそろえて、強さを増すように加工しているのです。

このように、強くて、軽く、伸びやすいクモの糸を、産業素材として使えないかと研究されてきましたが、上手くいきませんでした。クモは同じところに集めると共食いをする、またクモに一つの種類だけの糸を出させて集める方法がないなどいくつかの理由によります。
小さなクモから、まとまった糸を取るのは大変なのです。
同じ虫でもカイコが、一か所で大量に育てられ、また大量の糸を自分の体の回りに繭として作り、人間はその繭から、簡単に糸を採取することが出来るのに...

ところが、何とこのカイコにクモ糸を作らせることに成功したそうです。
クモ自体から糸を取るのではなく、クモの糸のタンパク質(フィブロン)を作る遺伝子をカイコに組み入れて、強く切れにくい糸を作ることに成功したそうです。名づけて「クモ糸シルク」。普通のシルクに比べて「切れにくさ」が1.5倍になったということです。

これは遺伝子組換えという、食用植物でよく使われる方法です。
遺伝子組換えとは、生物に別の生物の遺伝子を組み込んで、その性質を持つようにする人工的方法です。日本では依然、遺伝子組み換えに抵抗感を持つ人が多いのですが、このクモ糸の遺伝子を組み込んだ生糸は、生態系に与える影響を調べる必要はありますが、人の食する生物ではないため、そういった不安や抵抗は少ないと思われます。

驚くようなクモ糸シルクの開発ですが、実はクモ糸の遺伝子を組み込むことは、カイコ以外の他の生物にも行われています。
微生物に組み込み、フィブロンを量産することに成功したベンチャー企業があります。
クモ糸の遺伝子を組み込んだ微生物を、発酵タンクの中で大量に培養して、フィブロンを作り、これを精製し、溶媒で溶かし、そして繊維やフィルム、パウダーなどの形状にします。
この新素材を名付けて「Qmonos」(クモの巣)。すでに量産化もされていて、強度が高く伸縮性に富んだこの新素材の使い道は広く考えられます。
長い間、かなわなかったクモ糸の利用が、随分現実性を帯びてきたようです。

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未来は確定的か?ー2

量子力学の解釈によれば、ミクロの世界では、ニュートン力学的な世界観で考えた「この世界のすべてを把握し、未来も全て知っている全知全能の知性、ラプラスの悪魔」は存在しないことになるのです。量子の世界では、未来は「確定的」ではなく「確率的」なのです。

量子力学のこの解釈に、かのアルベルト・アインシュタインは猛反発しました。
彼はその生涯を通じて「量子力学に不確実さが入り込んでいるのは、それが不完全なため」と考えて、完全な物理理論は「決定論的」すなわち確定的であるべきだと信じたのです。
アインシュタインは、量子力学の出した結論に対して様々な反論を試みます
因みに彼は、実験や観察よりも「思考実験」によって物理的問題を考える性質の科学者で、有名な相対性理論を始めとした、さまざまな理論の多くが思考実験の産物なのです。
まあ元々、理論のスケールが大きすぎて、実証実験が不可能だったためという理由もあります。量子力学への反論も、思考実験によるものが主でした。

アインシュタインによる量子力学への反論に、主として対峙した相手は、デンマークの物理学者ニールス・ボーアです。二人の論争の主な論点は、「波と粒子の二面性」の問題と、物理学に「確率」が導入されていることです。
前回紹介したように、ミクロの粒子の運動は、波のように広がっていき、観測されたとたん、広がった範囲中のどこかで確率的に、粒子として発見されます。この波と粒子の二面性を量子力学では、次のように解釈します。
「波のように広がっていくのは、粒子の発見確率であって、波の強い方向では、粒子の発見確率が高くなり、またその逆は発見確率が低くなって、観測されると、そこで一点に収縮して粒子として現れる。」といういわゆる「コペンハーゲン解釈」です。

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この解釈を主導したのがボーアで、彼はこれを「相補性」という概念で説明しました。
相補性とは「粒子と波の互いに排他的な性質が、相互に補うことで、初めて系の完全な記述が得られる」という考えです。
しかしアインシュタインは納得しません。波が一点に収縮するという奇妙さもさることながら、物理学に確率が導入されたことは、とても許せないことでした。
ついには「神はさいころを振らない」という有名な発言をし、後々まで使ったそうです。
対するボーアの答えは「神が何をなさるかを語るなかれ」というものだったそうです。
二人の論争は、既に物理学を離れた「形而上学的」な話になっていって、多くの物理学者は、遠巻きに眺めていたということです。

さらにアインシュタインのアイデアを元に、オーストリアの物理学者、エルヴィン・シュレディンガーが考案した「シュレディンガーの猫」と呼ばれる思考実験が持ち出されます。
中が見えない箱に、放射性物質、放射線検出器、瓶に入った毒薬、そして生きた猫が入っています。放射性物質は「1時間以内に50%の確率で壊れて放射線が出る」とします。
放射線が出れば、検出器が検出して、毒薬が入った瓶を割り、猫は死にます。
量子力学の解釈では、観測を行っていない(箱の中を見ていない)段階では、放射線が出ていない状態と、出ている状態のいずれにも決まっていない筈ですから、猫は生きている状態と、死んでいる状態のいずれにも決まっていない筈です。
つまり生きた猫と死んだ猫が同時に存在する、そんな半分生きて半分死んだ猫がいる筈がないから、量子力学は完全ではない、というのがシュレディンガーの主張です。

これに対するボーアの答えは、1個の粒子が同時にあちらこちらに、少しずつ存在するのではないのと同様に、"箱を開けて猫を見た時に"、猫が生きているか死んでいるかの確率が半分半分であって、半分生きて半分死んでいる猫が存在するわけではないというものでした。

この論争において、量子力学の確率の記述を認めないアインシュタインが、ニュートン力学、つまり確定的で因果律が成立する古典力学の言語で、これを否定しようとするのに対して、ボーアも、量子力学を古典力学の言語で説明することを強く意識していて、量子力学の系と古典力学の系が、断絶していないということを「相補性」や「対応原理」という概念によって説明しようとしました。ある意味、同じ土俵の上での論争ということができます。

量子力学最大の功積を成したドイツの物理学者、ヴェルナー・ハイゼンベルグは、このほとんど形而上学的な論争にあまり興味がなく、「分かることだけ分かればよいじゃあないか」という態度だったそうです。
そしてこれはその後の物理学の大勢で、科学者たちは、こういった形而上学的問題にかかずらうよりは、量子力学が導く様々な未知の領域の探求に取り組んだのです。

シュレディンガーの猫の亡霊は、今でも存在していて、量子力学の話になると、未解決の課題として引合いに出されます。まあ量子力学の不可思議さを伝えるのには、面白い話かもしれませんが、余り趣味のよくない趣向とみる向きもあります。
一方でコペンハーゲン解釈も、そのあいまいさで、ボーアしか理解できないともいわれていますが、科学者の間では、いまさらこの問題が引き出されることもないようです。

さてあなたはどう思いますか?ミクロの世界とマクロの世界が、連続的に繋がっていなければならないと思いますか? そもそもマクロの世界は、一見決定論的に見えますが、果たしてそうなのか? あなたはすべての物質の未来が、そして自分の意識や意思が、すでに決まっているという決定論を信じますか?
この問いは物理学的なものではなく、形而上学的なものですから、誰でも考えるのは自由なのです。


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未来は確定的か?ー1

1687年に発表されたアイザック・ニュートンの運動の法則と万有引力の法則、いわゆるニュートン力学は、物理学に多大の影響を与え、その後永らく、ニュートン力学こそが、世界を支配する唯一の法則だという考えが続きました。それはどういうことでしょうか?

私たちの身の回りの事象を見てみましょう。止まっているボールが勝手に動き出すことはありません。また転がっているボールは、摩擦がなければ、いつまでも転がり続けます。
これは物体の「慣性」と呼ばれる性質です。持ち上げたボールから手を離せば、ボールは加速しながら落ちていきます。これはボールに「重力」が働いているためです。
身の回りの物体は、このような法則、すなわちニュートン力学に従っているのです。
物体は、最初に運動が始まった時点で、つまり物体の位置や速度や重さ、力の向きや大きさなどの初期条件が決まれば、後の結果は決まってしまうのです。
これを敷衍して、世界のすべての物体が、ニュートン力学の通りに動くとすれば、その結果すなわち未来は、あらかじめ決まっていることになります。

19世紀、フランスの数学者、ピエール・ラプラスは、すべての物質をそれ以上分割できない粒子の集合と考え、それぞれの粒子は、ニュートン力学に従って運動すると考えました。
そして「この世界に存在するあらゆるものの、位置や速度を把握できる全知全能の知性が存在すれば、その知性にとっては不確実なことは何もなくなり、未来をすべて見通しているはずだ」といった主張をしました。この「知性」は後に「ラプラスの悪魔」と呼ばれます。
ラプラスの悪魔にとっては、ボールの動きはおろか、天体の運動や生物の活動、そして人の意識や意思さえも、既に決まっているということになります。
「そんな馬鹿なぁ!」と思ったあなたの反応も、ずっと前から決定されていたのです...
ニュートン力学が、究極の理論と考えられていた時代には、このような「決定論的」世界観が、多く支持されていたのです。未来は「確定的」なのです。

20世紀に入り、物理学に二つの革命が起きました。「相対性理論」と「量子力学」です。
相対性理論は、時間と空間が伸び縮みすることを明らかにした理論です。
物体の速度や重力が極端に大きいときは、ニュートン力学ではなく、相対性理論が適用されますが「決定論的」であるという点では、ニュートン力学と同じです。
一方の量子力学は、原子のようなミクロの世界を正確に理解しようとする理論です。
量子力学の登場によって、ミクロの世界では、ニュートン力学が成立しない!ということが明らかにされました。

量子力学では、原子や電子などの量子(quantom)は「粒子」としての性質と「波」の性質の二つを同時に持っています。(粒子と波動の二面性)
物体が一定の速さで同じ方向に動いているとします。1秒後の位置或いは1分後の位置は、正確に求めることが出来ます。ニュートン力学の通りに動き、その軌跡は真っ直ぐです。
ではミクロの粒子の場合はどうでしょうか?ミクロの粒子は波の性質を表し、ある広がりを持って動いていきます。広がりといっても粒子が広がっていくわけではなく、ある範囲の中のどこかに存在するのです。
しかもどこに存在するのかは、決して予測することが出来なくて、「観測」を行うと、初めて範囲の中のどこかに発見されます。
どこかで発見されるといっても、でたらめに発見されるのではなく、粒子が発見されるであろう場所は「確率的に」予測できます。Aの場所では20%、Bの場所では40%といった具合に確率的に発見されるのです。なお大事なことは、観測を行わない限り、粒子は波としての性質を持っているということです。

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量子力学の解釈に従えば、ミクロの世界においては、ニュートン力学的な世界観で考えられた「この世界のすべてを把握し、未来も全て知っている全知全能の知性、ラプラスの悪魔」は存在しないことになるのです。未来は「確定的」ではなく「確率的」なのです。

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嗅覚と味覚

色の認識については、可視光線の電磁波を視覚センサーが、「色という心理的な量」に変換して脳で認識し、また音については音波を聴覚センサーが、これも「音という心理的な量」に変換して、脳で認識するということを書きました。今回は匂いと味の認識についてです。

嗅覚:匂いはどうやって嗅ぎ分けられるのでしょうか?
匂いの正体は、空気中に浮遊する様々な微小分子です。匂いを嗅ぐということは、この微小分子をとらえて、その形の違いから、何の分子かを識別しているのです。
ヒトの鼻の奥の「嗅上皮:きゅうじょうひ」と呼ばれる部位に「嗅細胞」があります。
その表面にある「嗅覚受容体」というタンパク質が、匂い物質を認識します。
受容体には様々な種類があり、それぞれ異なるくぼみ:凹を持っています。くぼみに匂い物質がぴったりとはまると、嗅細胞はその情報を脳に送ります。

人の嗅覚受容体は約400種類あります。ところが匂い物質は数万種類あるといわれます。400種の受容体で数万種の匂いを嗅ぎ分ける仕組みは、どうなっているのでしょうか?
実は、匂い物質は、その分子の様々な部分で複数の受容体に結合します。
受容体はそれぞれ、一つの匂い物質について複数の情報を脳に送ります。
つまり400種の受容体の組み合わせで、数万種の匂い物質を識別しているのです。
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受容体が組み合わされた情報は「嗅覚野」に伝わり、匂いが認識されます。
そして認識した匂い物質の情報は、脳の様々な場所に送られます。
「偏桃体」では「その匂いが好きかどうか」という情動についての情報が、「海馬」では「過去に嗅いだことがあるか」という記憶の情報が伝わります。
また前頭野では、味覚や触覚、温度感覚と統合した「風味」が認識されます。

味覚:次は味覚です。口の中には味を感じる「味蕾:みらい」というセンサーが、舌の表面やのど、上あごの奥などに散在していて、全部で7千個以上あるといわれています。
味蕾には「甘み」「塩味」「酸味」「苦味」「うま味」を感知する「味細胞」が、それぞれ数十個集まっています。
味細胞で味の分子を感知すると、その情報は味覚神経を通じて、まず延髄の「孤束核:こそくかく」という場所に送られます。そして味の情報を元に、例えば唾液が分泌されたり、吐き気を催すといったような反射的な反応が起きます。これは、まず栄養か有害かという判断が最初に起き、体内に取り込むか、吐き出すかという判断を行うのです。
口に入れたものが栄養なのか、それとも有害物質なのかは、分子構造のわずかな違いで決まります。栄養になるものは「好ましい味」、有害なものは「いやな味」に感じるのです。

次に弧束核から「塩味」や「うま味」などの味の情報が、大脳の「一次味覚野」に送られ、味の強さや質が分析されます。
さらに「二次味覚野」で、嗅覚や触覚からの「風味」や「食感」などの情報と組み合わせられます。「偏桃体」では、「好きか嫌いか」という「情動」の情報が判断され、食欲をつかさどるホルモンが分泌されます。そして「海馬」では、味の記憶が形成されます。

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ところで、五つの味は、それぞれどんな役割があるのでしょうか?
甘み、うま味、塩味の味覚は「栄養」になる分子を検知する役です。
甘みはエネルギー源である「糖」の分子検出を、うま味は肉や魚の「たんぱく質」に豊富に含まれるグルタミン酸やイノシン酸などの分子の検出、そして塩味は「ミネラル」の代表としてナトリウムイオンを検出します。
以上三つの味は、私たちに必要不可欠な栄養を検出する感覚です。

「酸味」と「苦味」は、有害な分子を検出して警告する味覚なのです。
食べ物は腐ると酸っぱい味がします。腐敗の過程で酸の分子が作られるためです。
また「苦味」は体に有害な「毒」の分子を検出し、「苦い」という信号を脳に送ります。
つまり苦味や酸味は、腐敗物や毒物のサインなのです。
でも私たちは、苦いコーヒーを美味しいと感じ、酸っぱいグレープフルーツも美味しいと感じます。なんで?
味情報が最初に伝わる「孤束核」では苦い、酸っぱい有害な味だと、反射的反応をしても、偏桃体や海馬の情報から「美味しい」「好き」「あの味」といった認識に大脳で組み替えられるのですね。「安全で体に良い」食べ物だと、脳が学習しているからです。

なお「辛味」も重要な味情報ですが、味覚では感じていません。辛味は舌・口中の「痛覚受容体」で感じていて、味覚神経ではなく、「三叉神経」で脳に伝わっています。
また痛覚受容体は、舌や口の中だけでなく、体のあちこちにあります。
わさびを食べると、味というよりも、ほとんどを嗅覚と痛覚で認識しているわけですね。

このように味は味覚だけでなく、嗅覚や触覚、痛覚そして色覚も加わって、脳で総合的な組み立てが行われているのです。
そして匂いと味もまた、脳で認識される心理的な量ということでしょうか?
解かれば解かるほど、不思議さが増す感覚の世界です。



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格差は拡大する

経済成長が先進国では停滞するものの、新興国や途上国では高成長もあり、低成長もありで様々です。
しかし経済的格差の拡大は、概ね世界で共通の問題のようです。
でも、なぜ格差が拡大するのかという理由については、明確な答えが見つかりません。関係する学も、経済学をはじめとしてあまり関心がないようです。

所得分配の不平等さの指標
ジニ係数という、主に社会における所得分配の不平等さを測る指標があります。
ジニ係数がとる値は0から1の間で、値が0の場合、各人の所得が同一で格差がない状態を、また値が1の場合、1人で全所得を独占する状態を示します。
値が0.4になると「社会騒乱多発ライン」と、また0.5~0.6は「慢性的暴動が起こりやすいレベル」とされています。
日本のジニ係数は、1980年ころから上昇していて、2015年では「0.57」と暴動レベルにまで達しています(厚生労働省調査)。但し、これは当初所得での値で、累進課税や社会保障受給を加算した再分配所得では「0.376」と、辛うじて社会騒乱多発レベルを下回っています。また米国でも過去30年の間、上昇を続けていて、2014年では再分配所得で「0.40」という数値になっています。

格差拡大の始まり
先進国では1970年~80年代から、格差の拡大が始まっていると見られています。
大体同時期に、先進国経済が低成長になったのと符合するかのようです。
しかし経済成長が高い新興国や途上国でも、ジニ係数は上がっています。
異様に高い成長を誇る中国は、ジニ係数が「0.5」という世界最高レベルの値を示す統計もあります。
ジニ係数以外でも、世界の1%の人口が、50%の富を有しているというような統計や最富裕層85人の資産総額が下層の35億人分(世界人口の半分)に相当するほど悪化したとの報告書(2014年、NGOオックスファム)など、世界で貧富の差が拡大している例証には事欠きません。格差は地域で、国家で、そして世界で拡大しています。

拡大のキーワードは「競争の激化」か?
格差拡大の理由について、賃金・収入の差、富の偏在、教育費の増大、人種や性的差別の拡大、高齢化、技術の変化革新、IT化、グローバル化、そして競争の激化等々多くの要因が挙げられます。おそらく、これらの要素の複合的な作用の結果と見るのが妥当なのでしょう。ちょうど10年前に起きたリーマンショックというバブルの崩壊もありました。世界で多くの雇用が失われました。
これらの要因の中から「競争の激化」をキーワードに、格差拡大を見ることにしましょう。
資本主義社会では、競争がその原動力です。競争はその定義からいって、優劣や勝ち負けを競い、優者や勝者が多くのものを手にいれることです。その競争が激化しているところに、格差拡大の大きな要因があるということです。

隠れていた格差
格差が最初にクローズアップされたのは、資本主義の発展とともに、資本家と労働者との間の対立が明らかになった時代です。
労働者の過酷な状況と、資本家との賃金・所得格差が際立つことになりました。
資本主義の進展とともに生じる絶対的な格差の行きつく先として、平等な社会が実現するという共産主義も生まれました。
しかし成長の伸び自体と、特に欧州で生じた社会主義的政策と相まって、格差問題も解決できるとの自信が生まれ、実際しばらくは、格差は大きな問題とはされませんでした。特に大戦後の世界的な高成長は、この問題があっても表面に出ることは無かったのです。

競争の普遍化
しかし今や、状況は様変わりしました。グローバリゼーションによって、競争は国境を超えて世界での競争になり、人々はあらゆる場面で競争をしています。
そして競争は激しくなる一方です。競争による淘汰の結果としての寡占や独占が、格差を拡大しているという面もあります。
また先進国での成長が停滞し、量的拡大がない中で、大きくならないパイの分け前をめぐって、強者が分け前を独り占めするような形で格差が広がります。

格差拡大を許容するもの
格差の主な要素は、所得格差すなわち「分配の不平等」です。これを経済学では、どう捉えているかというと、よくいって関心外、悪くいえば許容です。
経済学は「市場で自由な競争を行えば、需給は均衡し、資源は最も効率よく配分され、最大の生産者利潤と需要者効用を得ることができる」という理論が骨格です。
したがって、競争市場に参加する条件や機会が平等であれば、競争の結果である「分配」について不平等であっても、それはむしろ当然のことで、またそれ以上の分析はしません。
したがって不平等や格差が拡大しても、それは経済学の外のことになります。
そもそも、経済学でいっていることは、煎じ詰めれば「効率」であって、不平等や不公平であるといった「倫理的問題」とは拘わらないし、それがイデオロギーを排除した客観科学としての経済学だという共通認識があります。

そんな経済学的世界によく適合するのは、世界でもっとも「自由な競争」を信奉する国家、米国です。この国では、格差を是正する政策や提言に反対する声が大きく、それは「努力さえすれば誰でも成功できる」という神話が生きているからです。勝利者が多くを得るのは当然で、敗者は再挑戦すればよく、その機会さえ与えれば、後は自助努力というわけです。
勝者は努力した人、敗者は怠け者という単純な図式は、格差を否定しません。
そして今、世界全体が米国化しているのかもしれません。

格差の許容範囲
問題となっているのは、格差そのものというわけではありません。
格差の無い社会は、共産主義の儚いユートピアでした。
問題は格差が「許容できない程度にまで拡大している(と人々が考えている)」ことです。一体、どの程度の格差が容認できるのでしょうか?
たとえば企業では、一般の被雇用者と経営者との賃金格差が何倍までならば、容認できるのでしょうか。
被雇用者1000人全員と経営者1人の賃金・報酬が同じだった場合、つまり両者の所得比が1000倍を超えるような時、社員は、それを認めるのか?辞めるのか?それともジニ係数に従って暴動を起こすのか?
日本では「社長の高すぎる給料」に人々は敏感ですが、世界では例外のようです。
結局のところ、どれだけの人がそれを容認できるか、できないかというところにしか基準がないのが厄介なところです。しかしすでに容認できない程度に拡大していると、大多数が判断する段階ではないのでしょうか?...

格差と貧困
格差のもたらすものは貧困です。貧困は「絶対的貧困」と「相対的貧困」に分けられます。絶対的貧困は、一般的には「人が生存できる最低水準を下回る」ことを意味します。
相対的貧困は、一定の集団内において所得の低い人をいい、「集団の所得の平均値の一定の割合、例えば50%に達しない」というような基準で判断されます。
前述のジニ係数では、数値が高いほど格差(不平等)が大きい状態ですから、相対的貧困が大きいことを意味します。
一般的に先進国では相対的貧困が、途上国では絶対的貧困が問題とされますが、近年は国を問わず、どちらの貧困も見られるのです。

再分配の方法の誤りや歪み
格差・不平等・貧困への対処は、所得を税制や社会保障で再分配するという方法で、経済の外で行われてきました。競争的経済活動では、格差拡大はいわば必然的結果だからです。
しかし、各国はこの政策を効果的に行うことが出来ない状況が続いています。
その大きな理由は、それを実現するための資金に限りがあるうえ、少ない資金で効果的に行う方法が欠如していることにもあります。
つまり、相対的貧困にしろ絶対的貧困にしろ、その基本的情報の収集や測定、分析に明確で適正な方法が確立されていないこと、信頼性の低さや恣意性の入り込み、そしてたとえ適切な結論を出したとしても、その評価や適用に対する、政治をはじめとする様々な力学やバイアスの作用等々、総じてあまり適正でない方法がとられてしまうことにあります。

例えば米国では、公定の貧困指標は、絶対的貧困ラインを適用していて、従って政策は絶対的貧困の解決、つまりセーフティネットさえ用意すれば良いということで、相対的貧困、格差の是正には向かわないのです。
むしろ政治は高所得者に対する課税率の低減という、逆のことに向かいます。
高所得者の減税で余剰資金が消費や投資に向かい、経済が成長すれば貧困層にもその恩恵が回り、例え格差が増えたとしても、絶対的貧困者は減るという理屈です。
かくしてというべきか、格差・不平等・貧困の問題の解決の道筋は、見えてこないのです。

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成長は何故求められる?

成長の限界
一般的に「経済は成長するもの、しなければならないもの」と信じられているようですが、疑問の声は、少数ながらも常にありました。およそ半世紀前ですが、「成長の限界」という研究レポートが大きく取り上げられたことがありました。(ローマクラブ報告)
それは資源や地球の有限性から、人口増加や環境汚染がこのまま続けば、100年以内に成長は限界に達すると警告されたもので、大きな反響を呼びました。
しかし今ではそれも杞憂だったと、多くは受け取られています。
幸い?石油をはじめとした天然資源は、枯渇することなく、採取され続き、人口増加は大きかったものの、食料資源は(少なくとも総量では)不足していないし、環境汚染もサイレントキラーなるがゆえに、人々が目を背ければ何も起こらないかのごとくです。
かくして成長の限界は、今では省みられることも少なく、成長する経済の神話は続きます。
しかし、現実の経済(少なくとも先進国経済)は、ずいぶん前から低成長を続けています。一体どうしてなのでしょうか? 成長の限界の呪縛は解けたはずなのに...

成長の推進力
経済が成長するということは、端的にはその規模が大きくなることですが、では規模が大きくなるための推進力は何なのでしょうか?
成長は、一般に労働力や設備の増加による量的拡大と、そして労働生産性や資本生産性などの向上、そしてイノベーションによる新規の市場拡大によってなされるといわれます。
イノベーション( innovation)とは、「新しく採り入れたもの」というような意味で、一般的には技術革新を指すと理解されていますが、それだけではなく、新考案、 新機軸、 新制度など、社会的に大きな影響を起こすようなことという意味を持っています。
またイノベーションは、概して全ての資源の生産性を向上させる効果があるということで、特に注目されるのです。

生産性って何?
ところが、生産性の向上やイノベーションは、実のところ、その正確な把握が難しいという特徴があります。生産性の値は、評価基準や評価方法によって大きく影響を受け、また多くの場合、質的つまり定性的な評価を定量的評価に変換することも困難で、結局のところ、成長率の値から、設備や人口の増加での量的増加を差し引いた残りが、生産性向上という言葉で括られてしまうのです。つまり生産性は、工場での時間当たり生産量が、どれだけ増えたというような、ミクロの値の集計ではなく、マクロの残りものということです。
またイノベーションは、それが大きいほど、制度や社会的変革も大きく、そのプラス面とマイナス面があって、その中身をよく見たら、社会や経済の成長に寄与していなかったこともあり得るという、取り扱い注意物件なのです。

イノベーションへの過剰な期待
かって、産業革命が勃発し、そして石油が石炭に取って代わり、さらに電力がエネルギー利用の中心になった大技術革新時代は、すべてが量的拡大と質的変革を遂げることができたので、格別に生産性やイノベーションが取り上げられることもありませんでした。
もはや、このような大変革は起こらず、特に先進国では、労働および消費人口の増加や設備などの増加による量的拡大も見込めないので、勢い生産性の向上や魔法の杖とも見えるイノベーションに過大な期待を抱きがちになります。
イノベーションに多くの力と資本を注いでいる米国では、既存の生産設備の更新や労働力の生産性を高めるというよりも、新しいアイデアや事業モデルにとびつく性向が強くあります。独創性とか、個性的、挑戦といったことに大きな価値をおく土壌に、あふれるマネーのあくなき利益の追求が結びつき、成長を渇望して止まないのです。

マネーの、国や地域を越えた跳梁
マネーは短期で効率的に利益を上げるために、グローバリゼーションを旗印に、国や地域を飛び越えて、世界中の金融市場や株式市場で、マネーがマネーを求めて跳梁します。
そして、IT革命というような、ビッグイノベーション期待のもとに、新しいアイデアやモデルで巨額の投資を集め、株式新規公開で一気に巨額の利益を生むという手法が、今日の流行(はやり)です。
また多国籍企業は、工場を主として事業拠点の海外移転で、雇用の縮小や産業の空洞化をもたらし、或いは企業自体のタックスヘブンなどへの移転によって租税を逃れ、さらには鳴り物入りのイノベーションが、その担い手たる人材は海外から集め、資本はどこのモノとも知れず、そのもたらす果実は四方に拡散し、国家や地域に残されたものは僅かだとしたら、一体何のための成長?

成長は常態ではない...
第二次世界大戦後、抜きん出て巨大な工業太国となった米国に牽引された高度成長時代は、1970年代には峠を越していたという見方があります。実際、米国のGDPは、1980年~2017年の37年間での平均成長率は2.7%を下回っています。
古い産業は見捨てて、新しいビジネス、特にマネー経済や、IT産業に走り、世界からマネーが集まり、人口も増加している米国においても、経済成長率が、3%に達しないということは、先進国では低成長こそ常態といっても過言ではありません。
敢えていえば、3%近い成長を長く続けたことすら、特異的なことともいえます。
高成長のほうが説明を要する事態で、低成長もしくは成長しないということが、自然状態であるとの認識に立てば、違う世界が見えてきます。
因みに18世紀後半に産業革命が始まりますが、世界の覇者であった大英帝国の、18世紀を通した平均経済成長率は、0.3%を切る数字だったようです。世界中の植民地からの収奪と、そして産業革命の初期成果をもってしても、その数字だったということは、随分と示唆的です。

再び成長の限界
米国の仕掛けたグローバリゼーションは、資本が利潤を求めて国境を越えて、世界のどこにでも自由に移動することを意味しましたが、それもリーマンショックでつまずき、今や米国は、グローバリゼーションと反対の方向に向かっているようにも見えます。
次なる成長の糧としたGAFAに代表されるIT産業は、全盛を極めているように見えますが、このところ、向かい風が吹き始めています。
ローマクラブ報告から半世紀、成長をいつまでも続けるのは、物理的に不可能という自明の理が、そろそろ現実のものとなるのでしょうか。それとも富は実体からますます遊離して、人々の頭の中だけの増殖が加速するのでしょうか。

それなのに何故、成長を追いかける?
GDP(国内総生産)やGNP(国民総生産)などの指標は、もともとは第二次世界大戦時の戦費調達のために、つまり徴税のために開発されたものです。
大戦後、西側諸国は復興の資金需要、そしてソビエト連邦を中心とする東との冷戦による軍拡競争、労働者の雇用条件の改善を旗印とした様々な(社会主義的)福祉政策等々、多額の資金と政府関与が求められ、各国政府は経済を制御するうえで、使い勝手のよい経済指標としてGDPを多用するようになりました。
すぐにGDPは、その規模で国の強さと大きさを意味する、またその増加すなわち成長は、国の勢いを表す格好の指標となったのです。GDPは毎年、成長を義務付けられ、やがて成長率自体が自己目的化するのは時間の問題でした。

資本が資本を生み、限りなく増殖する資本主義が、あからさまにその正体を現して世界を跳梁し、またすべての制度や人の思考形式に至るまで、成長を前提に作られてしまっていて、今となっては変えようもないように見えます。
成長とその持続への期待は、七難を隠します。
世界の大きな問題や混乱や不安も、成長さえ達成すれば、解決できるように思わせてしまい、飽くなき成長を求めて、目の色を変えて追い続けるのです。

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光と音はどうやって認識される?

太陽の光すなわち自然光は、人の目には「白色」に見えます。
しかし光をガラスで出来た三角柱のプリズムを通してみると、様々な色の帯が現れます。
「赤橙黄緑青藍紫」の帯、光のスペクトラム(連続体、分布範囲)です。
光は色によってその波長が違うため、プリズムを通るとき、波長に応じて異なる屈折率によって、光が分けられて七色の帯になるのです。
spectram2.jpg
図上はその光のスペクトラムで、図下はいわゆる「光の三原色」と、その三原色を混じり合わせた、いくつかの色を示しています。さらに三原色の配分や明度、彩度を変えて混合すれば、人が認識するすべての色を作り出せます。
「RGBカラー」では、Red、Green、Blueのそれぞれ256通りの色調で、色や濃淡を連続した階調で表現することができます。256階調あれば、人の目は隣どうしの色や明暗が区別できず、滑らかなグラデーションになります。

光は図のように、およそ380~780nmの波長をもつ電磁波です。
では光の三原色で、すべての色を作ることができるということは、赤緑青の三つの電磁波で、すべての色に相当する電磁波を作るということなのでしょうか?でもスペクトラムに無い色は、どの波長の電磁波?というより、何でスペクトラムには、七色しかないの?

実は三原色は、人の目の視覚細胞と大きな関係があるのです。
視覚細胞には「赤、緑、青のそれぞれの光を感じ取る三つのセンサー」があって、それぞれのセンサーが受け取った光の量が脳細胞に伝達されて、三種がミックスされて、「色」として組み立てられるのです。
つまり光の三原色とは、人の三色の視センサーが基準になっているのです。

スペクトラムの七色も、電磁波に七つの色があるのではなく、人の三色の視センサーがそれぞれ感じ取った電磁波を、脳がミックスして、七つの色に大別して認識しているということになるわけです。
例えば、黄色は580nm~595nmほどの波長の電磁波ですが、緑と赤の電磁波が混ざった光線でも、同じ黄色になって、両者を人の眼は区別できません。
また青色と赤色が混ざると、「ピンク色」という(それに相当する波長の電磁波は無い)色になります。ピンク色とは脳内でミックスされた心理的なもので、桃色光線というものは存在しないのです。

色とは「脳が光を認識する手段」なのですね。色は「物理的な量」というよりも「心理的な量」ということができるのです。「光に色はない」ということを、最初にプリズムで光のスペクトラムの実験をした、かのアイザック・ニュートンがいっています。

次に音の場合は、どうやって認識されるのかということです。
大抵は「空気の振動である音を、鼓膜が捉えて認識する」ということで済ましていますが、実際はもう少し複雑な仕組みです。
鼓膜(中耳)の振動は増幅されて、蝸牛(かぎゅう)という器官(内耳)に送られ、蝸牛内にあるリンパ液を振動させます。
そしてリンパ液の振動が、聴覚細胞である有毛細胞を刺激し、その刺激が、神経から脳に脳に伝わり、音を認識するという仕組みです。
ということは、音の振動が、聴覚細胞によって(色と同様に何らかの心理的な量に代えている訳ですが、考えてみるとこれも不思議です。

医療で、人工内耳というのがあって、聴覚障害に用いられますが、その仕組みがわかると、聴覚の理解の助けになります。
人工内耳は補聴器と外見は似ていますが、補聴器は増幅した音(空気振動)を、そのまま鼓膜に送っているのに対して、人工内耳はマイクロフォンが捉えた音声を、音声分析装置で「電気信号」に変換し、そして蝸牛に埋め込んだ(インプラント)電極へ送り、電極が聴覚神経を刺激します。
蝸牛の聴覚細胞は、その部位による周波数特異性をもっています。つまり聴覚細胞が反応する周波数がそれぞれ異なっています。そこで蝸牛内の音域の割り当てに対応して、複数個の電極を埋め込みます。
そして音声分析装置の中のプロセッサーが、どの電極をどの程度刺激するかを決めます。

音声の周波数分析を時間的に連続して行い、強さ、周波数、時間 の三次元で表示することを、スペクトログラム(Spectrogram)と呼びますが、これで見ると(特にあ行の母音では)、特定周波数に、はっきりとしたピークが得られます。この特徴的なピークが、音声毎に異なるために区別ができるわけです。その特徴を捉えて電気信号に変換する行程を、音声処理(コード化)法といいます。
スペクトロピークというコード化法では、音声スペクトログラムを、そのまま電極での刺激の場所と強さに変換します。
下図はスペクトログラムの時間軸を省いて表示した図ですが、黒色の部分がピークにあたります。

peak1.jpg

人工内耳は蝸牛本来の信号は得られませんが、個人差はあるものの、一般的にかなりの程度で言葉を聞き取ることができるようになるといいます。
そしてこのような人工内耳の仕組みと同じことを、人の耳(特に内耳)が行っていると考えると、内耳は音声分析装置の機能を持っているということですね。

このようにして、蝸牛の各部位に送られた電流が聴神経と脳に伝えられて、音に相当する何らかの心理的量に変えられているのですが、この部分は色の認識と同様に、まだよく解明されていない、未知の領域なのです。
もとの空気振動を聴神経や脳によって、補完、補正や創造(想像)、フィルターなどなど様々な作業を行って、音として組み立てているのです。
この音の認識(組み立て)は、色の認識と同じように高度でかつ、見方によっては、随分と大胆(アバウト?)な脳の作業なのです。

人工内耳と同じように、視覚障害のために、人工網膜というものがあります。
人の網膜には視細胞が縦横の格子状に並んでいますが、人工網膜はデジカメのように、受光素子が縦横に並んでいて、機能しなくなった視細胞の代わりを務めます。
受光素子は、マイクロチップ化されていて、眼の網膜に埋め込まれます。
入ってきた光は、受光素子で電気信号に変えられ、信号は視神経に送られ、そこで「光」として認識(構成)されます。
現在の段階では、光の明暗は「モノクロで縦横何ドット」というレベルで認識されますが、それでも大きな文字などは読めるようになります。電光掲示板のような具合ということです。将来的には画素数も広がり、また「色」も認識できるようになるのでしょう。

私たちは目を瞑っても、色を思い浮かべることが出来るし、夢の中でカラー動画を見る?こともできます。また音楽のメロディーを頭の中で再現できるし、発声しなくても言葉で文章を組み立てられる、というように、まだ解からない不思議な仕組みによって、その作業が行われている訳ですね...

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エントロピーと時間の矢

「エネルギーはリサイクルできない」で、エントロピー増大の法則に触れました。
この法則は、解かったようで良く解からない法則ですが、実は「時間の流れ」ということについて、重要なことを表している法則でもあります。
「時間とは何か?なぜ過去から現在へ、そして現在から未来へ流れるのか?」
これは現代物理学でも解き明かされていない難問なのです。
ニュートン力学でも、マックスウェル電磁気学でも、アインシュタイン相対性理論でも、量子力学でも「時間の向き」はないのです。もちろん時間は重要です。例えば、運動する物体の速度は「移動距離/時間」で求められます。しかし時間の向きについては、「過去から未来に」でも、反対に「未来から過去に」でも、全く区別しないのです。

私たちにとって、時間の向きは、日常的で明白なように見えます。
例えばミルクの混ざったコーヒーと、混ざっていないコーヒーとを比べて、どちらが過去かと問われれば、誰でも迷わずに、後者と答えられます。混ざったコーヒーが、ミルクとコーヒーに分離することはないことを知っているからです。
こういった元に戻らない過程、不可逆過程は、身の回りにいくらでも見ることができます。
そして私たちが過去と未来を区別できるのは、この不可逆過程があるからなのです。
この過去から未来への一方通行を「時間の矢」とよびます。
しかし、この時間の矢は、上に挙げたような物理学からは生じないとすれば、これを表している物理法則はないのでしょうか?

この謎に挑んだのが、19世紀のオーストリアの物理学者ボルツマンです。
ボルツマンは「混ざっていないコーヒー」と「混ざったコーヒー」との違いは、ミルクの原子の『散らばりぐあい」だと考えました。
「混ざっていないコーヒー」は、ミルクの原子がコーヒーの一隅に集まっているのに対して、「混ざったコーヒー」では、ミルクがコーヒー全体に散らばっている。
この散らばり具合を数値に置き換えて、それをエントロピーの大きさとしました。

ミルクの散らばり具合は、コーヒー空間におけるミルク原子の配置によって決まり、配置の数をWとすれば、エントロピーSはWの自然対数 log Wに比例する値として計算されます。  S=K log W (Kはボルツマン係数と呼ばれる比例定数)

milk.jpg

混ざる前のミルクの配置は、6個のミルク原子が、36マスの最上段に並ぶ配置なので1通りしかない。エントロピーSは、K log 1で、すなわち「0」です。
混ざった後のミルクの配置は720通りです。Sは、K log 720 で約「6.579K」 になります。
散らばっていない状態は、エントロピーが低く、散らばった状態は、エントロピーが高くなります。秩序だった状態が、時間とともに乱雑な状態に落ち着いて行く、その不可逆過程が、エントロピー増大の法則であり、時間の矢の原因だとボルツマンは考えたのです。

ところでエントロピー増大の法則は、熱力学第2法則ともいわれます。
「熱は不可逆的に、高いほうから低いほうに移り、その過程でエントロピーが増大する」
蒸気機関の発明によって熱機関の研究が発展して、19世紀半ばに、トムソンやカルノー、クラウジウスなどの学者によって、熱力学の法則が完成しました。
カルノーサイクル(温度の異なる2つの熱源の間で動作する可逆熱サイクル)の数学的解析から、不可逆的熱移動と乱雑さの増大の概念が明らかにされ、エントロピーと命名されました。エントロピー増大の法則は次のように表されます。
  ⊿S≧0 ⊿(デルタ)は、変化後のエントロピーから、変化前のエントロピーを引いた差です。その差が正の値になるということは、変化後のエントロピーは、変化前のエントロピーより増えていることを意味します。

ボルツマンは、そのおよそ50年後に、エントロピーを、原子の力学的解析から熱力学的な性質を説明する「統計力学」の立場から見直し、「原子の分布の仕方の尺度」として再定義した事になります。
熱力学でのエントロピーと、ボルツマンのエントロピーとは、本質的に同じものなのです。
さらに彼は、エントロピーこそが、時間の矢の原因だと説明したのです。
しかし、ことはそんなに単純には済みませんでした。

ボルツマンは、原子の散らばり具合をもって、エントロピーを導きましたが、実は原子は、その当時、まだ発見されていなかったのです。この点について批判が起こリ、激しい論争がなされました。実在しないものを仮定して作られた理論なんて...というわけです。
またエントロピー増大の不可逆的過程をもって、時間が過去から未来に流れる証明としましたが、「時間対称的な力学から、不可逆過程が導かれるはずがない」として批判され、否定されてもいます。時間の矢を逆手に取られたのです。

今日、ボルツマンの功績は、エントロピーの公式や、それ以外の分野においても、広く認められていますが、時間の矢の存在証明については、いまだ道半ば?
エントロピー増大の法則は、厳密にいうと私たちの身体的な経験則に過ぎないという見方もあって、時間の矢の確かな証明になるには、最初のエントロピーが低い状態が、どうやって用意されたかを知る必要があるといわれます。
つまり時間の矢があらわれる本当の理由を知るためには「どのようにして、宇宙の最初に、エントロピーの低い特別な状態が用意されたのか?」という問いに答えなければならないのです。その状態から現在の宇宙のエントロピーの高い状態が導かれれば、エントロピーが時間の矢の原因だということが、明確にされるということです。

時間についての大いなる謎は、現代の最先端物理学においても、例えば量子重力理論などによって、取り組まれていますが、大きな難問のようです。

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栽培植物のエネルギー変換効率

植物は光合成によって有機化合物を作り出しますが、これは太陽光エネルギーを、有機化合物の化学エネルギーに変換することを意味します。
その変換効率は、複雑な変換の、どの段階をいうのかにより、数値が異なりますが、トウモロコシ、イネ、サトウキビなどの効率の高い植物では「5%」一般的な植物では「1%」程度という数字が一つの目安とされているようです。
この数字を単に、エネルギー変換効率と捉えると、太陽光発電の「15%」超の効率と比べても、随分低いものですが、光合成では「変換装置自体」を、そして何よりも「生命」を自前で作っているのですから、比較することに、さして意味はないのです。

さて、現代農業では別の変換効率の測り方があります。すなわち農作物に投入された(人工的)エネルギーと、産出された農作物の持つ(化学)エネルギーの比率です。
これで見ると、高度に工業化された米国の穀物では、2とか3といった数字になるようです。すなわち、投入エネルギーが「1」に対して、産出エネルギーが「2~3」ということです。

投入エネルギーは農業機械、化学肥料、そして農薬などに使われるエネルギーの総量です。
すべての投入エネルギーを計算するのは随分込み入って面倒で、算出結果も幅があるのですが、いずれにしても低い数値です。
しかし、トウモロコシから作るエタノールでの比が、1になるかならないかと議論されるということを鑑みても、さほど、かけ離れた数値ではないようです。
因みに現代農業以前では、10とか20といわれます。投入されるエネルギーは、主に人と牛馬だけでしたから、殆ど自然の恵みだけで農産物は作られていたわけです。

日本のコメ作では、この比率はさらに、ぐっと下がって、「0.2」とか「0.4」なんて、1桁違う数字ですが、こちらも「当たらずといえども遠からず」のようです。
コメ作は、もはやエネルギーを生み出すのではなく、エネルギー多消費の付加価値産業になっているのです。かといって、米国型の農業を日本で実践するのは不可能です。
米国型農業は、栽培に適した気候、広大で平らな大地、高度な農業技術、そして安価なエネルギーのどれが欠けても成り立たないのです。

米国型農業が生み出す安価なトウモロコシ。牛や豚、鶏などの畜産物の主な飼料に使い、またスナック、ジャンクフードを始めとして、ありとあらゆる食品の原材料に使われています。米国人はその身体の50~60%が、「トウモロコシ由来の炭素」で構成されているということです。たとえ、一粒のトウモロコシも口にしなくてもです。
1キロカロリーの肉牛を食することは、10キロカロリーのトウモロコシを間接的に摂取するという具合に、トウモロコシ由来の炭素が、ヒトの身体を構成しているのです。
日本人も米国人ほどではないにしても、トウモロコシ由来の食品を多量に摂取しています。

トウモロコシへの過剰な依存を減らすにはどうしたらよいか。
牛などの畜産物を食べるのを減らして、コメ食を増やし、主食の座に戻したらどう?
牛からコメに変えれば、トウモロコシへの依存度が大きく減るのでは?
でも、トウモロコシへの依存度は減るものの、投入エネルギーについては変わらないのです。エネルギー多消費で、つとに批判されている肉牛の投入エネルギーと産出エネルギーの比を計算すると、「0.2」ほどということなので、何と日本でのコメ作と、同レベルの数字なのです。だったら肉食うぜ!となるのは必定かも。

牛肉からコメに変えて、トウコロコシ(由来)人間ではなくなっても、化石燃料への過剰な依存は変わらない...何とか、コメへの投入エネルギーを減らしたいものですが... 

さらには、日本の野菜の投入/産出エネルギー比は「0.02」という、コメを1桁下回る絶望的な数字です。まあ、これはある意味、仕方ないという見方もできます。
野菜といってもいろいろで、イモ類のようにエネルギーの大きいもの、葉野菜のように殆どないものなど、それぞれの数値があって、一緒には出来ません。
そもそも、多くの野菜はエネルギーを摂取するためよりも、それ以外の必要な物質の摂取が目的で、また果物などは嗜好的な味覚のために食されるのですから、エネルギーの多寡はあまり意味を持たないのです。まあ、甘いものはエネルギー多いんですが...

野菜の投入/産出エネルギー比は、穀物ほどには問題にならないのかもしれません。
しかし、エネルギー比が問題にならなくとも、投入エネルギー自体が大きいことは事実。
これを減らすことはコスト面のみならず、エネルギー資源の面で、大変大事なのです。
エネルギー使用を大きくしているのは農薬、化学肥料、農業機械の3セットに、ハウス、温室などの施設、光熱費などなどです。

最近注目を浴びている植物工場は、どうでしょうか?
どう頑張ってもエネルギー消費の増加は避けられません。何しろ、大掛かりな施設に、様々な機器、そして太陽光を使わず、人工の光まで使うのですから...
それよりも、もっと差し迫った問題は、日本の植物工場の多くは、黒字経営になっていないということです。高コスト、販路や安定供給の問題、市場動向に左右される立場などの課題に加え、他業種からの参入も多く、全体的にまだ栽培のノウハウも確立していないなど、厳しい状況が続いています。将来的には期待できるのでしょうけれど、そうなると、さらにエネルギー消費が多くなるのかも知れません。
果物に習って、エネルギー消費なんて問題にもならないくらい付加価値の高いプレミアム商品を作ることが残された道なのでしょうか?1個何万円のトマトとかね?

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